序 ある科学者とある哲学者

 最初に述べておかなくてはならないこととして言っておくが、私は専門の科学者でもないし、哲学者でもない。ただ科学に対して限りない尊敬の念を持ち、哲学に対しては、その中の何人かの哲学者やその考え方に大いに共感してきただけの者である。
 しかしだからこそこの二つの愛憎半ばする学問の間に立ってどちらに対しても中立的な立場から臨めるという立場にあることを利用していつか両者に立ちはだかる誤解を解き、両者の立場に共通する視座を見いだすような文章をものしたいと願っていた。そしてある日よく読んでいた科学者と哲学者のある考え方に対して大いなる共通性を感じ取ったので、ここでこうしてこのブログを執筆する決意を固めたのである。
 一人は解剖学者の養老孟司氏であり、もう一人は哲学者の永井均氏である。
 私は解剖学の専門的知識はないし、哲学に関しても勝手に独学で学んできただけなので何ら専門的学位を取得しているわけではないが、この二人を共に愛読している者であるなら誰でも明瞭に気づくある考え方の共通性がある。それはあるゆる意味での人間の意志伝達ということ、要するにコミュニケーションに纏わる心的な私たちの作用に対する固有の着眼である。
 よく養老氏は「生きているもの」と「死んだもの」という風に二分し、前者を本来言葉にすることが不可能である筈の生きていることの実存的様相として、後者を言葉として規定している。そして自らの解剖学を死んだものを通して生きているということの実相を知る学問として捉え、そして哲学を生きているものに対するアプローチとして不十分なものであるという批判的眼差しを持っておられる。
 かたや永井氏は明らかに他者へ言葉を通して私について触れることとは、端的に私という存在を一旦私固有の世界の見え方から、その言葉を告げるべき他者をも共有出来る超越的視点(この超越という言葉は実に便利な言葉である。哲学でこの言葉を使用する時というのは意外と曲者なのである。)に私を預けて、私固有の見え方を私の内部においては諦めることを意味することに対して執拗に追及しておられる。
 さてこの二つの眼差しは容易に私たちに一科学者と一哲学者の固有の見方というような職業的な認識を離れてある種普遍的な何事かを物語っているように思えてならないし、多くの二人の著者の愛読者諸氏もそう感じておられることだろう。
 そのことを考える上で参考となる文章がヘーゲル晩年のテクストである「法の哲学」(ヘーゲル「法の哲学Ⅰ」藤野渉 赤沢正敏訳 中公クラシックス)に散見されるので、まず次の言葉を引用しておこう。

 〔意図の妥当〕主体的な、すなわち道徳的な意志の内容は、一つの固有な規定をふくんでいる。すなわち、その内容が客体性の形式を得たときでも、しかもなおそれは私の主体性をひきつづきふくんでいるとされる。そして所行は、それが内面的に私によって規定されたかぎりにおいて、すなわち、それが私の企図、私の意図であったかぎりにおいてのみ価値があるとされる。私は外にあらわれたもののうちに、私の主体的意志のなかにあったより以上のものは私のものと認めはしない。外にあらわれたもののうちに私は自分の主体的な意識をもう一度見ることを望むのである。

 この文章は第二部 道徳の§110の追加として書き加えられている。追加とか補足と言うとどこかついでのように思われるかも知れないが、しばしば哲学者のようなタイプの人々にとってそのテクスト内においてそのように触れ込まれたものというのは、意外とその哲学者の本音を表したものである場合が多く、ヘーゲルのこの箇所も極めて彼の真意を汲み取る上で重要である。
 つまりはじめの「主体的な、すなわち道徳的な意志の内容は、一つの固有な規定をふくんでいる。すなわち、その内容が客体性の形式を得たときでも、しかもなおそれは私の主体性をひきつづきふくんでいるとされる」の部分は明らかにある言説を提示した者の社会的責任について触れられている。例えばこのブログは河口ミカル=olivlove私自身のものであるが、一旦私の手を離れれば、それを読む人々、つまり来場者の視点からいかようにもこの限られた文章の連なりと、その一つ一つの言葉が紡ぎだされる過程を、一人一人の読者固有の世界から読むことを可能とする客観的なテクストとなるのだが、同時に、その過程に付き合えるとある読者が思っても、逆に付き合え切れないと思っても、その責任はやはり著者である私自身にあるということは言える。そういう主張としてこの文章を理解することが出来る。
 しかし次の一文「所行は、それが内面的に私によって規定されたかぎりにおいて、すなわち、それが私の企図、私の意図であったかぎりにおいてのみ価値があるとされる」という文章は明らかに「される」けれども、それは社会的ルールであり、例えばある本に関して出版社や編集者、著者の責任とか、版権とかそういう社会付帯的な要素としてある本を見た時のことを言い表しているのであって、例えば私がルソーの本を読んで感じ取ったことというのは、例えば「孤独な散歩者の夢想」なら、それはある孤独な散歩者の夢想それ自体の記述であれ全くの空想であれ、勿論それはルソー本人の夢想から着想されたものなのだが、実際その夢想された記述を読み進めつつ、追想するのは、この私であり、私のそのテクストを読む時の精神状態と、私の人生のそれまでの経験とか記憶によって一つ一つの記述を理解したり、首を傾げたりすることそれ自体によってのみ、私に理解されるものである、という意味では完全に著者とか出版社を含むあらゆる出版事情というのは何の関係もない。それは事実的には、世界の中で創造者と完全に切り離された状況のものなのである。それが客体化されるということだからこそ、ヘーゲルは「される」と態々そう言っているのである。
 そして極めつけは次の文章である。「私は外にあらわれたもののうちに、私の主体的意志のなかにあったより以上のものは私のものと認めはしない。外にあらわれたもののうちに私は自分の主体的な意識をもう一度見ることを望む」とは端的に、私が出した例で言えば、要するに著者の内的な思惑、つまり出版する意志とか意図であるが、そのものと極端に外れるものを私は認めないと言いつつ、しかしそのような受け取られ方をした場合勿論責任は著者にあるのだが、そのテクストが価値あるものであるかどうかという評定規準というものは、その著者の思惑とか意図とは無縁に存在し得るという主張として読み取ることが出来るのである。
 つまりこのブログのことを例に取れば、私は明らかに私の書いたブログの読者として、私自身がある意図を持ってこのブログを書いたのだから、私の意図に沿う形での私が書いた客体化された作品の主張以外のものを認めたくはないということは通常の心理だろう。しかし恐らく私は私がこのブログを書いた時の意図からは外れた新たな意図を再度この文章を読む時に発見するかも知れない。そしてそれは私がこのブログを書いた時の意図とは別個に、確かに存在し得る可能性を孕む私の文章を書くという行為全体の中に潜む無意識の意図なのであろう。そしてその意図と最初にこの文章を私が書いた時の意図とどちらを優先してこの本を評価するかということは、どちらの意図の方が優れているかということとは無縁だし、恐らく価値ある意図(それが最初にこのブログを書いた時の意図ではない場合でも)の方のみを常に私たちは優先すべきであるということを(それがどのようなテクスト、大家とか天才が書いたテクストであれ普通の人の文章であれ)、ヘーゲルはこの短いパラグラフで言い表したかったのだろうと私は解釈している。恐らく哲学者であるジャック・デリダもそのことを言いたいために差延という言葉を創作し、「グラマトロジーについて」を著作したのではないだろうか?
 そしてそのヘーゲルが短いパラグラフから投げかけ、初期デリダをも捉えて離さなかっただろうと思われるこの真理こそ、二人の科学者と哲学者の言いたいある真理なのではないかということを私はこのブログを通して主張したいのである。
 そう言ってしまえば意外と単純なことだけの主張のように思われよう。しかし私にとって本来科学とか哲学という全くある部分では異なった専門的学問においてこれだけの共通性が潜んでいるということの方がより不思議であり、恐らくその不思議さの感動ということにおいては科学者も哲学者も全く変わりないということを表しているように私には思えるのである。
 そのことを二人の科学者と哲学者、そしてこの二人に啓示を受けた大勢の先達、周囲の人々の考え方を通してこの問題を掘り下げていってみようと思う。