第一章 思想や科学と哲学とは壁を乗り越えられるか?③個人における責任とは何か?組織、集団の責任倫理との狭間で(1)

 今回から言葉の持つ概念世界であることの意味と作用と限界について養老と永井の論文を具に検討することと、それ以外の実際の社会的出来事への洞察を絡めて考えていきたい。今回は養老の考えを中心に検証していってみようと思う。その前に最近あった社会的出来事から少し長いが論説を試みてみようと思う。

 菅家さんの無罪を確定する再審が行われ、菅家さんは出廷した検察官に謝罪を要求したことは記憶に新しい。しかし検察官は遺憾の意を表するに留まった。そしてマスコミは挙ってこのことを報道した。さも謝罪しなかったことを不当であるかのように。
 しかしよく考えてみよう。もしあの時出廷した検察官が菅家さんの明確に謝意を示したなら、恐らくマスコミはその事に対して報道を集中させ、果てはその上司、そして遂には司法全体にまで責任が波及したことだろう。行政の一翼である検察官はあの時、最終的に判断を司法に委ねた。そして司法は誤審をした。もし検察官があの時謝罪すれば確かに菅家さん本人の気持ちは収まったかも知れない。しかし責任は明らかに司法全体へと波及する(その事がいけないと言っているわけではない)。その事を考慮に入れれば、仮にあの時検察官が個人的心情としては菅家さんに謝罪したいという気持ちを抱いていたにしても、尚彼は自らの職務を全うしたということになる。端的に彼の職責に纏わる全歴史をあの時辛うじて謝罪しないことによって守ることが出来たと言える。
 つまりそれが組織や集団の責任倫理なのである。そして今からよく思い出してみよう。あの時司法へ誤審を齎した最大の誘引は報道だった。しかしマスコミ報道の加熱はその事を自省することはおろか、一切の言及を避け、他の誰もが菅家さんを有罪であることを疑わずに連日報道した。そしてあの時はまさに日本国民全体がそうだったのだ。
 だからその時たまたま当事者であるに過ぎなかった一検察官からのたった一言の謝罪の有無へと報道を焦点化させたその事実自体への批判がこの国から一切出されないのは一体どうしてなのだろう?
 つまり所詮マスコミも又検察や司法と同様、組織であり集団でありその責任倫理に追随して口を噤んでいるだけなのだろうか?
 つまりあの時謝罪出来なかった検察官は当事者として被害者であるとさえ言い得る。ただ彼は当時の日本国民全体の世論を考慮して判断したに過ぎないからである。恐らく彼は関係者全員、つまり同僚や上司からの激励を受けて出廷へと臨んだことだろう。
 しかしもし一検察官にそのような斟酌をするなら、当該のマスコミ関係者各位も同様の配慮を向けねば成らないだろう。つまりこの事案の最も本質的部分とは端的に誤審責任そのものが個的に存するのではなくあくまで組織、集団、世論全体にあるが故に個による謝意というものが持つ実効性そのものが問われているということである。
 しかしそれら一切はやはり菅家さんに対して誤審をした加害者であるところの集団全体へと向けられた忖度であるに過ぎない。そして菅家さんの人生を大きく幸福から遠ざけてしまった事案の持つ理不尽に対して、我々は只なす術もなく見過ごすこと以外の一切の選択肢を持たない、ということである。
 そしてここで私たちは菅家さんの怒りを決して国民の誰一人として鎮めることなど出来はしないという現実をしっかりと見据えておく必要があるのだ。
 それは私たちが社会的にも哲学的にもそういう無力な存在であると自覚すること以外のことは出来ないということを意味する。
 菅家さんにしても菅家さんの人生における貴重な十七年という年月はどうすることも出来ない。
 つまり我々は決して自分だけが被害者であり加害者ではない、と思ってはならないのだ。つまり誰しも何らかの意味で我々は誰かからの加害によって被害者ではあるが、同時に別の何らかの意味においては我々は誰かの被害において加害者でもあるのである。そして人間は自分が受けた被害に関しては敏感だが、自分が知らず知らずの内に他者へと加えてきている害に対しては極めて無頓着な生き物でもあるのだ。つまりそのことを常に考慮に入れて生活していく必要だけはあるだろう。
 つまりそういった私たちの個々の傾向性が集積し、組織や集団のレヴェルとなった時、今回のような司法へ誤審をさせるようなケースを生じることになる。
 責任倫理とは端的に個において謝罪したり罰金を払うことによって解決出来るというレヴェルにおいては何ら我々の心情へと反省を強いるものではないかも知れない。少なくとも自分自身でそうすべき根拠を見出すことが可能な場合は全くそうである。
 しかしそれが組織や集団に於いて解決すべきレヴェルの場合、我々は一切の心情における反省が効力を持たないと心得ておかねばならない。特に組織や集団、いや国家全体が誤った判断をしてしまったような場合(戦争を含む)我々は個々の責任倫理的自責ではどうにもならないことも多いのだ、ということだけは知っておくべきかも知れない。
 人間が個人に課せられた運命というものもあるが、同時に組織や集団、共同体や国家にも課せられた運命というものもあるのだ。そしてどのような個人も常にこの二つを共存させている。そして私たちは皆個人の運命に関しては、自覚的であり得る(いつもではないが)が、集団の運命に対してはなかなか自覚的、つまり意識的ではあり得ない。
 このことを明確な形で示しているのは何も倫理学者たちだけではない(永井均倫理学者であるから当然のこととして)。養老孟司は講演会(実は昨日私はある地方都市の商工会議所の百十周年記念式典で氏の講演会を聴講した)で「皆さんがもし手術する時、その執刀医の医師の方に<どうして麻酔すると意識がなくなるんですか?>と質問してみて下さい。きっとそのどんな先生でも顔を顰めて気分を害するでしょう。何故って未だに医学では何故人間が意識が発生するか分かっていないからです。つまり何故意識が発生するのか分かっていないのに、何故意識が消えていくかなど分かる筈がないから、どんな先生でも返答に困る筈だからです」と述べていた。
 つまり養老氏によると、どんな医師でも「ああすればこうなる」式の因果法則を実は経験則に応じて履行しているに過ぎず、一度麻酔をかけた患者が二度と意識が戻らない可能性も常にゼロではない、ということなのだ。
 つまりここには医師という立場による人間の生命を預かる人たちが返答に困る質問をぶつけてくる患者を嫌うということが、実は自己に課せられた責任の重圧から少しでも軽減されたいと望む人間の当然の権利であり欲求である、ということである。
 養老は「無思想の発見」において次にように述べている。

 世間の人の多くはいまではサラリーマンになった。要はそこが信用できない。なぜならサラリーマンとは、どこかから月給を貰う人である。それならその「どこか」をいちばん大切に思うしかない存在である。そうなると仕事はどうなる、という疑問が起こる。電車の運転手が一分半、時間が遅れたというので、極端なスピードを出す。理由は再教育という名のイジメを恐れたからだという。それが本当かどうかは別として、仕事とそうではないことの評価が、ここでは逆転している。運転手なら、運転がいちばん重要でなければならないのだが、周囲の人間たち、上役の方が重要になっているのである。
 この種の逆転現象は、いわゆる経済の世界では当然である。たとえば、その仕事になんの関係を持っていなくても、会社を乗っ取ることはできる。それが「悪い」というのではない。それをやっていれば、感覚世界よりは概念世界に深入りすることになる。そういう人は「信用できない」。会社という約束事を現実だと思っているのは、単にそう思っているだけのことだと、すでに述べた。
 概念世界そのものが信用できないのではない。概念世界に入れ込むなら、つまり思想に殉ずるなら、それはそれで専業に近くなるしかない。月給を貰って、ものを考えろといわれても私にできない。私は自分で勝手に考えているだけである。そこに利害はないから、年中読者から文句をいわれる。脅迫状まで来る。それはそれで仕方ない。これが組織に属していたら、いいたくてもいえないことがあるはずである。周囲に迷惑をかけるからである。国立大学で給料を貰いながら考えていた時代がいちばん辛かった。月給を貰いながら、思想は説きにくい。なにかを「説く」とすれば、「大衆」に向かって説くしかない。大衆は組織とは関係ない。だからこそ大宅惣一も司馬遼太郎も「大衆を信じる」というしかなかった。これを日本的普遍性とでもいうべきか。(173〜174ページ、<第七章 モノと思想 中 感覚世界と概念世界の逆転>より)

 養老が言う逆転現象こそ前回私が述べたことである。経済社会は目的と手段が逆転しているということを前提にして養老はこの文章を書いている。 
 養老がここで言う大衆こそマスコミが相手にしているものである。しかし極めて重要なことには大衆という言葉に自分が該当すると思う個人など一人もいない、ということである。何故なら我々は常に自分は「その他大勢」とは格別に一線を分かつ存在であるとして思えないからである。そして養老の言うように、恐らく件の検察官も辛い思いで菅家さんに対して謝意を表することを断念したのであろう。
 解剖学医師としての経験から養老は結婚式は誰しも似ているが、葬式だけは千差万別であると講演会でも述べているし、「死の壁」でも書いている。つまり葬式で遺体を引き取るために出向いた先で遺族や葬式に参列者へ向かって何か一言言えと言われて挨拶してきたことが後年大学で講義をする時の話し方の訓練になったと言っていた。
 そして実に興味深いことには養老の講演会による言述によると、死というものが家族とか本人という当該者にとっては切実なことであるのに、解剖という形で関わる他者である自分たちから見たら実に滑稽なことでさえある、ということだ。これはホラス・ウォルポールによる言葉である「世界はそれにかかわる人からすれば悲劇であるが、それを眺める人にとっては喜劇である」を思い出させる。
 さて次回は、永井による幾つかの論文によって示された言葉の規則ということと私的であるとはどういうことか、あるいはそれは実際に可能であるか、ということに於いて考えていきたい。そのプロセスにおいて養老孟司による解剖学医師としての経験と判断から得られた思想がどう絡んでくるか、ということが命題ともなる。(つづく)