インターミッション 

 ④言葉の規則と不文律・国家の体裁と秩序 に入る前に一度基本的なブログでのスタンスを述べるためにインターミッションを設けることとしよう。
 本質的に思想と言っても、哲学と言っても基本的に言語的営みであることには変わりない。そのことが極めて重要である。そこで私たちは哲学を実用というレヴェルで考えると、思想との関わりを論じることを避けて通るわけにはいかないこととなる。そのことは日本では西周によって生み出された哲学という語彙にある固有のニュアンスから忌避してきた歴史もある。それを助長したのがドイツ観念論哲学の歴史であり、その歴史を移植した日本の学界の体質である。
 だが今日現代社会は既にかなり錯綜した情報網と、テクノロジー的な意味合いからも近代以降の社会から又別のフェイズへと飛翔しつつある。そういった時節において我々は哲学を広く社会科学やテクノロジーの活用、あるいは実用的な方法論へと解放させていく必要がある。
 哲学の歴史においてそれをかなり初期において実践したものがプラグマティズムである。そしてこの考え方では社会教育的見地からも実践論が叫ばれてきたので、必然的に宗教倫理思想家たち、例えばエマソンやカーライルといった人たちとも交流のあったウィリアム・ジェームスとジョン・デューイとによって推進されたという面が強く、その二人の元祖的存在にチャールズ・サンダース・パースがいたわけだ。
 プラグマティズムは従って方法論的学として自然科学へも影響を与えているし、その流れに論理実証主義なども位置づけられる。
 その後哲学は現象学などの登場、そして分析哲学などへと分派していった。前者の筆頭にはブレンターノとフッサールが、後者にはフレーゲやタルスキーなどが挙げられる。
 しかし徐々に哲学自体が固有の命題を論理分析する方向へとシフトしていき、その反省的な視座から構造主義などが席捲することとなり、その後衛としてポストモダン思想などが登場していったわけである。
 私たちの時代の特色とは端的にデカルトやロック、バークリー、ヒュームからカントを通過してヘーゲルキルケゴールニーチェなどに至るまで全ての哲学が等距離にあるような錯覚の下で各命題を分析するという視座を設けていると言える。
 その中には精神分析に流れを汲むものなどと構造主義ポストモダンなどが合流する地点でものを考えるなどの試みが常に挿入されてきたし、我々は今日思想という言葉を聞く時、フロイトユングラカンといった存在をウィトゲンシュタインハイデガーといった存在と並列的に考えることも比較的しやすい。
 だが各哲学者、思想家、論理分析家にはそれぞれ固有の事情もあるし、異なった文脈も無視することは出来ない。にもかかわらず我々は常に殆ど勝手と言っていいほどそれぞれの存在を結びつけ、反目させようと試みる。それはプラトンアリストテレス以来彼ら自身がそうやって哲学史を例えば形成してきたということを事実として知ることが出来るからである。
 そして思想とはそれら全体を認識する時に有効な人文科学的視野である。尤もこの人文科学的という考えはあくまで現象学や社会哲学系の学者たちの考える方法であり、分析哲学では人文科学と自分たち自身を峻別しようという考えもある。
 だが多くの分析哲学の方法論がそれ自体一つの他分野、異分野への流用可能性としての意義も示している。例えばクリプキやデヴィドソン、パットナム、クワイン、ルイスといった存在は個々固有の命題を抱えていた。それらは従って本ブログで取り扱う養老孟司のようなタイプの思想家にも間接的には影響を与えている。いや全ての科学者たちが古来から綿々と哲学によって育まれてきたことを真摯に受け留めている。例えば進化論生物学者であるリチャード・ドーキンスは明らかにそういった哲学史的視座から、固有の理論へと到達していると言える。
 その点を無視しているのは寧ろ哲学者自身であり、思想家や科学者と名乗る者の方にはそれはない。この不均衡自体がある種の学界的な閉鎖性を生んでいる。勿論それは取り敢えず日本のことであるが、少なからず米国でも英国でもそれはあるようである。尤も米国や英国ではそれを凌駕しようとする動きも常に盛んであるとは言える。
 そして哲学自体も今日、倫理学法哲学から、社会哲学、現象学分析哲学まで含めれば一括して「これが哲学の本質だ」と語れるほど容易には個々のものを理解することも困難と化している。しかし恐らく先ほど述べたように技術論的、方法論的な意味合いからすれば、ある意味では全ての学問の垣根を容易に超え得て、学際的交流さえ然程困難ではない時代にも突入したとさえ言える。その一つがネット社会の到来によって顕現されてきていると言うことも出来る。
 今後も本ブログでは個々の論説を用意するのも大変なことなので、ゆっくりと時間をかけて臨んでいきたいものであるが、今述べた技術論的、方法論的視座を軸に全てを展開させていくという事の内に論説の可能性を認めている、ということだけは明示しておきたい。