第一章 思想や科学と哲学とは壁を乗り越えられるか?②言葉とは倫理の発生である(2)

 因果関係というものをちょっと考えてみよう。
 私たちは食事をする。しかし食べ終わると食欲は失せて、今度はテレビを見たり、本を読んだりしようとか休日は思う。しかしそういう風に休日に過ごすことが出来るのは、生活費があるからである。食べて生活費が底をついたから働こうということが出来る人は随分と優雅な人である。はっきり言って恵まれている人である。たいていはそれとは逆に休日にゆっくりしたいから、その余裕を持つために何か仕事を探し既に働いている。 
 つまり食べてエネルギーが蓄積されたから何かしようではなく、そういう風に休日にゆったりした気分を味わうためにまず仕事を見つけるということが一般的社会人の姿である。つまり因果から言えば個的な行動の全てが後であり、まず公的なことが存在し、その公的事項の一つ一つに我々は自己を当て嵌め、その中で自由とか心のゆとりといったものを獲得している。それは端的に生物学的生存の原理とは全く逆の因果である。
 ここに読書の好きな主婦がいたとしよう。彼女は養老孟司の本を読んで、感動したから感想文を日記に書く。しかしもしここに評論家とかエッセイストとかがいたとしたら、彼等なら養老孟司の本を読んでよかったから何かを書こうとしようとは思わないだろう。つまり彼等なら恐らく最初から何かを書こうと決めていてその為に養老氏の著作物を購入して読むのである。
 カラオケに行くとしよう。その時我々は「銀座の恋の物語」とか「ロマンスの神様」といった選曲をしてからその歌詞に沿って唄おうとするだろう。
 だが本来その曲は誰かによって作曲され、作詞されたものであり、最初はその人によって何かを作りたいという衝動があって、それに沿って曲は作られた。しかしカラオケで唄って楽しむ時には予め作られてカラオケボックスに用意された曲を選ぶ。
 私たちの言語もそうである。言語というものを大脳の進化と共に持った人類も最初は何かうーうーと唸っていただけだったかも知れないが、ある時突如何かを他個体に伝えたいという欲求を持って、それを発語するということを何らかの契機によって方法として得たのである。 
 しかし赤ん坊として生まれ我々はいつしか両親の話しているのを自然と耳に入れ、それを自分自身でも覚えて親に、あれ買ってとか、これが欲しいとは強請るわけだ。既に私が生れる以前に日本語の体系は完成されていたのであり、私が日本語を独自に発明したのではない。
 例えば需要があるから供給があるということが今度は社会内での前提であるが、だが寧ろそれは建前であり、企業は予め一定の年齢層や性別、あるいは職種にまで踏み込んで需要そのものを創り出し、それに沿って供給を設ける(そのためにPRが存在する)し、政府は年間の国家予算の計画を立ててそれに沿って政権を運営し(その号令が官僚によってなされても政治家によってなされてもそれは我々には直接関係ない)、各省庁に対して号令をかけるわけだ。
 つまり社会とは言ってみれば、このように生物学的順序、つまり行為の因果論を全て逆さまにしたものである。結果を想定して原因を作り出すと言ってもよい。つまり人工ということは因果関係においてさえ生理的自然とは相反する順序を強いるものなのである。
 そのことを念頭に入れて永井の次の論述(「翔太と猫のインサイトの夏休み」<ちくま学芸文庫判を利用>第三章 さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるか 中 3、意味は存在しない より)を読んでみよう。

「さっきから疑問に思ってたんだけどさ、・・・・・・そもそも、ものごとがわかるってことはどういことなの?わかったと思い込んでも、ほんとうはわかってなかったってこともあるよね?だとすると、ほんとうにわかったっていえるのはどういう場合なの?それとさ、同じことかもしれないけれど、さっきから疑問なのは、意味がわかるってことなんだよ。相手の信念とか考えは、意味がわかりあえているって前提のもとで、相手に聞いてみれば、わかるよね?でも意味を聞いてみることはできないじゃん。聞いてみたってその答えの意味がまたわからなきゃ、またその意味を聞かなくちゃなんないだろ?聞いてもみないで、こっちが勝手に分かったと思い込んだって、ほんとうにわかってるのかどうかわからないし・・・・・・」
「意味って問題を考えるうえでいちばん大事なことは、まず意味は主観的なものじゃないってことを知っておくことだね。よく作家なんかが、自分の文章が入試問題で使われて、正解とされた答えがまちがってた、とか文句言ってるけどね、あれはおかしいよ。入試問題は文章の一般的な解釈力を試すんだから、一般的な解釈力を持った人の一般的な解答が正しいんで、作家自身の解釈が正しいわけじゃないんだから。そもそもね、文章を書いた人や言った人は、その文章によって言わんとすることってのがあるから、自分の発した文章がそれを言えているはずだって思い込みやすいんだ。書き手や話し手がその文章によって言わんとしたことと、その文章が客観的に言ってしまっていることは別だからね。
 翔太がね、チワワとコッカスパニエルの区別がつかなくて、どちらも単に小さい犬として思っていなくても、翔太が口に出した『チワワ』とか『コッカスパニエル』という言葉は、客観的に存在する区別を意味しちゃうんだし、翔太が相対性理論量子力学を、両方とも単に物理学上のむずかしい理論としか思っていなくても、口に出したとたんに『相対性理論』はアインシュタインが発見して、いま物理学の専門家が知っている理論内容を意味してしまうんだ。(184〜186ページより)

 ここで永井が示していることは只単に意味の解釈についてだけではない。それはある意味を意味する語彙を使用するということについての責任倫理についてである。そして私が序において示したある文章がその文章を書いた人の思惑とは別箇にそれ自体が主張する真理を伝えるということである。「意味がわかりあえているって前提のもとで」という箇所は既に前ページにて永井によってドナルド・デヴィドソンの考えた(この本では名前は出てこないが)『チャリティ原則』ということだと説明されている。
 つまり私が引用前の今回の解説で述べたようにまず社会とは結果とか目標というものが設定され、その目標の数値に近づけるために皆努力し、勤労するという事実は、実は言葉を使用するという段で既に実践されている、ということである。言葉とはその言葉を使用する人によって疑問に思われることを問い詰めていくためのものではない。言葉とはある語彙の意味するところが相互に伝達されることで、意味が理解し合われるものである。従って哲学や思想においてその語彙の持つ意味自体を問うという行為は、特殊な行為である。だからこそ言葉や言葉が意味するところ自体を問うということが、ある部分では高次の行為でもあるが、ある部分ではそれは排除されていかねばならない、つまり現実社会では意味が『チャリティ原則』に沿って援用される、つまり伝達されることの方が重要ということになるのだ。だからもし伝達された意味を語彙自体が理解出来ても、その語彙の意味自体が理解出来ない時にはその意味を辞書で一人で調べたり、他人に問い質したりする必要が逆にある、というもう一つの責任倫理についてもここで示されている。
 しかしこの論述においてもっと重要なのは次の箇所である。

 でも意味ってもののとらえがたい秘密はね、よく知ってるつもりで、毎日使っているもっとやさしい言葉でも、自分が使ってる言葉の意味なんてほんとうは知らないからなんだ。よく国語の試験でさ、何々って言葉の意味を書けってのあるけどさ、あれはね、簡単な言葉ほど難しいだろ?『青い』や『小さい』や『気持ち』だって、そうだろ?でも、ぼくらは毎日のように、そういう言葉をちゃんと使ってるんだよ。」
「そう言えばそうだね、どうしてなんだろう?」
「どうしてかって言えばね、言葉の意味なんてものは、ほんとうはないかもしれないからだろうな。初めから言葉で定義された難しい言葉は別だよ。科学用語とか、法律用語とかね。そうじゃなくて、自然に身につけて使えるようになってきた言葉にはね、本来、意味なんてないのさ。国語辞典に書いてあるのはね、あれはこじつけ。ほんとうの意味じゃないんだ。ほんとうの意味ってものがあるとすればね、それは実際に使っていることの中に示されているだけなんだから、そこに示されいるものを、自分が語るなんてできないのがあたりまえなのさ。」
「そんなら、国語の問題はまちがってるの?」
「その言葉がわかってるってるかどうかのテストとしては、明らかにまちがっているね。国語の先生たちは『意味がわかる』ってことの意味がわかってないんだ。言葉を完璧に正しく使えても、意味を語るってことができない人のことをね、『意味自覚障害』っていうとすればね、意味自覚障害者は国語の成績は悪いかもしれないけれど、日常生活ではぜんぜん不自由しないんだよ。」
「・・・・・・っていうことは、言葉の意味がかわるっていうのは、その言葉が実際にちゃんと使えるってことでしかないってことだね?」
「実はね、言葉だけじゃなくて、知覚だって、行為だって、何だって同じことなんだ。たとえば、何かが見えるっていうことはね、それが見えてるんじゃなきゃできない仕事が実際にできるってことなんだよ。そのことの内に示されることなんだよ。自分には何が見えてるかを自覚しているってことじゃないんだ。まして、それが口で言えるってことじゃないんだよ。知覚じゃなくて行為だって同じことさ。何かができるってことは、まさにそれがやれるってことで、自分がどうやってしているかが説明できるってことじゃないんだ。
 見えてる人じゃなきゃできない仕事はできるけど、何が見えてるかを自覚してはいけない人のことを『知覚自覚障害』って呼ぶとするとね、それから、行為ができるけれど、自分が何をどうやってやっているかはわからない人を『行為自覚障害』って呼ぶとすればね、こういう障害者は、重度の障害ではないんだよ。それどころか、どんな自覚的な人だって、みんな、結局はどこかで必ず、自覚障害的に生きているんだよ。
 むしろね、逆の欠陥の方がはるかに重大だと思うよ。逆っていうのはね、言葉の場合なら、言葉の意味を言うことはできても、その言葉をふつうにちゃんと使うことができない人のことだな。これを『意味実践障害』とでも言っておこうか。知覚の場合でいえば、何が見えているかはよーく自覚しているんだけど、それが見えていることを前提とした活動は何一つできない人が『知覚実践障害』だ。行為の場合だと、何をどうやるかは完璧に説明できるんだけど、実際にはやれない人が『行為実践障害』ってことになるな。言ってることわかる?」(186〜188ページより)

 永井によって行為実践障害と呼ばれている者とは、端的に前回の養老による論述内で示されていた師匠と弟子の関係でもよく理解されることだろう。つまりある職人とはあるものを作ったり、動作したりすることで職務を全う出来るとすれば、最初に個性を掴むのではなくまず基本的にどういうものを作り、どういうことをするかということをマスターする必要がある。だがそれをするためには特殊な創造や行為のための理解、つまりどうすればどうなるか、道具や素材を使って創造する時には、その仕組みについて理解しておく必要があるけれど、それ以上になるとやはりその創造の行為を巧く実践出来なければいけない。しかし我々は障子を開け閉めしたり、雨戸や扉を開け閉めしたり、テーブルを拭いたりすることは難なく出来るが、そのようには創造(家具を作ったり、彫刻を作ったり)は出来ないし、そこまで行けば掃除機とか冷蔵庫とかのような道具の使用仕方というレヴェルではない。だから我々はそういう特殊な技術に関しては大半が行為実践障害者集団である。しかしそれは逆に社会的ロールによって我々は各専門分野毎に専門家に委任している。だから職人とか専門家とは端的に全員、非行為実践障害者であるが、同時にある行為を難なくこなすことが出来るということは逆に、行為自覚障害者である、ということになる。だから極端な例としては、人命に対する尊さを知らない人間がいて、どんどん人を殺すとすれば、それは倫理に関して行為自覚障害者である、ということになる。
 知覚実勢障害とは車が自分が渡ろうとしている信号のついていない横断歩道に突進してきた場合、咄嗟にそれを除けて歩道に引き返すことが出来ないという弊害を齎す人のことである。
 だから最初の意味自覚障害者でなければ意味を我々は伝達することが出来ないという社会的現実のことを永井は言っているのである。
 しかしここでは触れられていないが、常に哲学的夢想ばかりしていて、一切の意思疎通の出来ない人間がいたとしたら、それはまさに意味実践障害者である、ということになる。それを本当は永井は一番強調したいからこそ、「言葉の意味なんてものは、ほんとうはないかもしれない」に意味が生じるのだし、「むしろね、逆の欠陥の方がはるかに重大だと思うよ。逆っていうのはね、言葉の場合なら、言葉の意味を言うことはできても、その言葉をふつうにちゃんと使うことができない人のことだな」とぼかしているが、実際にはこの部分こそ倫理学者として永井が最も強調したいことのよういに思われる。
 それは養老による様々な論文において「自分探し」をするな、という若者へ向けた餞の言葉にも合い通じるのである。
 我々は人が溺れかけている時に、溺死とはどういう意味かという事を問うていてはいけない。しかしそういう時に泳げる人は咄嗟に水の中に飛び込み、それが出来ない人は誰か助けられる人を呼ぶという行為を採るだろう。その行為は溺死ということの意味を我々がそういう場合以外の日常で学習しているからである。
 これは言葉が一つの社会的行為、社会行動のための道具である、という現実認識と共に、言葉の意味を問う心の余裕は失ってはいけないが、そうかと言って言葉の意味を問うだけで行動も行為も伴わないということの問題点も突いていると言える。だから言葉自体の存在理由や、言葉の意味への問いとはそれ自体倫理的な問いということになるのである。
 次回はそのことを念頭に入れて、言語習得ということを巡ってなされている養老と永井の論述を引用しながら考えていってみたい。