第一章 思想や科学と哲学とは壁を乗り越えられるか?②言葉とは倫理の発生である(1)

 私たちは物事を考えるのに必ず言語的な思考を巡らす。だからどんなに自分で全て考えていると言っても、どこかで規制の約束事に縛られて考えているとも言える。つまりそういう風に自分なりの考えを出そうと思えば思うほど、それは自分だけの考えではなしに他の誰であっても同じように考えるだろうという風に結論する。つまり考えというもの自体に既に「自分にはそう思えるという気持ちもあるけれど、他の誰かに告げたら、その気持ちは理解して貰えないのではないか」という目測が介入してしまう。
 つまりかつてヴィトゲンシュタインが「哲学探究」において感覚日記というものをつけたことに対して、しかし彼が一切それを自分独自のものであると彼が思いたくても思えないという風に結論したことは永井論文からの引用文においても示されていたが、要するにそういう風に言語的規約を自分になりに作ったとしても、その規約を設けること自体に既に自分を「一個の他人」として扱う視点が介在しているのだから、必然的に我々はそれを仮に自分以外の誰に示しても理解されるように、という思考を働かせるのである。つまり端的に「自分に分かるように」ということは「自分以外の他人にも分かるように」ということなのである。それは要するにある感覚日記を仮に私はつけて、ある日に味わった固有の気分をAならAと名づけて、実際にはそれと同じ気分を数日後に味わった時やはり私は日記にAと記すとしよう。するとその二度目にAと記す時私は最初にAを味わった時のことを「最初にAを味わった自分」という風に解釈している、つまり今ではないという形で他人化した自分がつけたそのAと今は同じ気分だ、ということを「過去の他人化された自分と今の自分はしかし所詮同じである」という風に今の自分が過去の自分と同じであることを確認する、つまりアイデンティファイする意味で記している。それは端的に同じ自分でありなら、過去の自分を他人化することによって自分がそのAという記号を理解するということを、自分内部で自分にだけではない、つまり自分の中の他人に向けて発進しているのである。
 つまりもっと簡単に言えば三回目にAと記す時には、最初と二回目のAを記した時の過去の自分という自分の中の他人と同化しようとするわけであり、それはその時々で今の自分だけが絶対的な自分だということを知りながら、自分であったもの、としての過去の自分という他者から見て今の自分という風に理解することによって同じ過去の自分にも理解されるように自分で規約を設けているのだから、必然的にそれを私以外の他者に説明したら、それを理解して貰えるように記しているということになるのである。そうでなければ私は最初に記したAも二度目に記したAも何の意味か今の自分からは分からないということになる。そうではないということは過去の自分の今の自分への説明としてのAを理解し、過去の自分へ今の自分が「今もAという気分だ」と告げることを選ぶ際には、明らかに過去の自分という今の自分から見た他者に告げているということになる。それは自分以外の他者にもそれなりに理解して貰えるように説明すれば理解して貰えるという可能性の中で全ての記述を行っているということとなるのである。
 もう一つ重要なことを考えておく必要がある。それは何故そのようにAという記号を私は記そうとするのかということだ。それは端的にその時にそういう風にAという気分だったと記すことをしなければ、私が暫く時間が経つと、一切そういうことを忘れてしまうということを意味している。
 つまりあらゆる記述とは端的にそれを記述しないで済ませたら、一切記憶に留めておくことが困難である、という将来への目測があるということだ。
 これは全ての言語行為に備わった至上命題である。つまりだからこそ私はAという記号を固有の私の中の気分を表わすために利用したのである。すると私はある意味ではこのAという記号利用という独自の仕方を通して、実は人類が何かを記録するということの起源を遡ったという風にも解釈出来ることとなる。記述するということは文字や記号を記録することだからだ。
 そして全ての記録とはその記録された内容が過去のある時点にあった、ということを未来のいつの時点かは定まっていても定まっていなくてもいつかは必ずそれをもう一度読むということを前提して書かれているということだ。つまりその記録を読むということの内には、それを読まなければその内容が書かれた過去の時点のことは容易には思い出せないということ(それが日記であればであるが)であり、読ませるのが他人であれば、その事実を知っている者は記録した者だけだ、ということになる。
 つまり全ての文字、記号による記録とは、その記録をした時のことを時間の経過と共に人間が忘れ去るということを前提としているということだ。
 そして忘れるということを恐れるということこそが記憶させたままにしておくことが無難でよかろうという判断となって記録しておこうという決定になっているのである。それは端的にそれを記録した者が自分であれ他者であれ、誰かであること、つまりその同一性において人格を認可し判断しているということを意味する。もし人類にとって時間が経過して一切の過去の人格によってなされた行動の責任を取る必要がないのであれば、言語は今のような形ででは秩序だっていず、全く異なったシステムにおいて用いられていたことだろう。過去に誰かを殺したことがあったとしても尚我々が「それは過去の私であり今の私ではない」の一言で済ませられるのであれば我々に文字などというものは必要ないことになる。文字にはその時点で既に個というアイデンティティということを記すという意味合いが含まれている以上、責任と無縁なことではないのである。あるいはそのことに対する自覚なく何かを記すことがあっても起源的にはそういう人間の無意識の判断から言語が生み出されてきたと考えることは出来る。
 それらのことを踏まえて、まず養老が述べていることを再び「スルメを見てイカがわかるか!」から解析してみよう。

 若い人はとくにそうだと思いますが、自分の心というのは自分だけのものだと考えているのではないでしょうか。それで個性だとかオリジナリティだとかを主張する。たとえば学問をやるんだったらオリジナリティが非常に大事だと。しかしほんとうにオリジナルな考えで、ほんとうにオリジナルな感情で、ほんとうにオリジナルなことをしたら社会はどうなるか。そういう人をたくさん知っています。そういう人は全部精神科のリストに入っているというのが私の経験です。結局、いうことで、することで、感じることで、他人と共感しない限り、他人が共感してくれない限り、実は意味がないのです。意味がないどころか、しばしばそれは排除の対象になります。(第一章 人間にとって、言葉とは何か 中 個性の成り立ち、17ページより)

 ここで養老は確かにオリジナルであることは価値であると我々があまり言葉の意味をよく考えもせずにそう言うこと自体への警告とも受け取れる発言をしている。ここで養老が述べているオリジナルな言語があるとすれば、それはまさにヴィトゲンシュタインが考えていた私的言語ということになるだろう。つまりその文字も記号も全く何を意味しているのか、後で書いた自分さえ理解出来ないとすれば、それこそそれを私的言語と言っていいかも知れない。そして私が引用の前でした思考実験で示したような意味で過去の自分が現在の自分と同一である、という認識がもし人間にないのであれば、恐らく言語は我々が利用しているのとは全く異なったシステムとなっているだろうが、そのようなシステムの言語がこの養老の記述におけるオリジナルな言語と言っていいかも知れない。
 更に養老の論を見ていこう。

 だから、個性を求めるアイデンティティという言葉が英語のままカタカタになっていて、日本語にならないのは、当然のことなのです。日本の文化の中で若い人にアイデンティティ、自己というものを求めるのはおかしいのです。日本ではむしろ「師匠のやるとおりにやってみろ」といいます。お稽古ごとややった人は誰でもしっているはずです。お茶であろうが、お能であろうが同じです。(上と同じ)

 ここで養老は一応日本文化に話しを限定させて、アイデンティティという語彙の深い意味を日本人がよく知らないということを前提に話を持っていこうとしている。更に先を行こう。

 師匠のところへ行って鼓を打ってみる。師匠は何というでしょうか。「ダメ」と一言。何ヶ月か練習して打ってみる。「ダメだ」。まだダメなのです。それでその何回目かぐらいに、または一年目か二年目に、ある日師匠が「良し」という。本人は何で「良し」といわれたのか分からない。でも、まあ、これでいいなら・・・・・。そういう調子でやっていくのです。そうやってマネをしていくと、絶対におたがいにマネができないというポイントがいずれやってくる。師匠にしてみればどうしても弟子を変えることができないし、弟子にしてみればどうしても師匠のマネができない。これが両方の個性です。そこまでつきつめないと個性というものは生れてきません。これが本来日本でいっている個性なんです。経験的に個性を定義していけば、ギリギリつめたところで成り立ってくる他人との違いであって、それは日本語でも同じでまったく共通です。人間の脳というのはそういった意味で、共通性を高めるようにプレッシャーをかけてきたのです。(上と同、18ページより)

 ここで養老は個性というものを意味として受容し得る可能性を敢えて、厳しい習い事の修練過程において例証しながら、しかしその実共通性を基盤としているからこそ個人間の差異が現出してくるのだ、ということを言いたいために師匠と弟子の関係を持ち出している。ここで一番重要なのは「そうやってマネをしていくと、絶対におたがいにマネができないというポイントがいずれやってくる」である。マネできない個性を現出させるためにこそマネという行為に意味があるということだ。これを先ほどの言語の話に再び返すと、こういうことになる。
 つまり過去の自分が感じたAという気分はある期日に感じられていて、その時に何をしていたかを自分が覚えているとしよう。するとそのAという気分が出現した日の状態と、今まさにAという気分が出現している時の状態とではまるで異なった性格のものであり、異なった生活状況であるとすれば、そのAという記述は同じAという基準を設けることによって、同じ自分の中で異なったタイプの気分の現出のさせ方を、今の自分と過去の自分との対比によって知ることが出来る。それは同じ自分における共通性を通した異質な性質を見出すということである。自分の中にあってそれまで知られていなかった異質性、つまり他者を発見することである。
 それは他人との間でも援用出来る。同じことを取り敢えずやってみようとするから、或る時点からは全く違った仕方でしか出来ない局面に遭遇するということである。
 更に養老の論を見ていこう。

 だから数学や哲学が最初に学問で出てきました。ソクラテスが典型的ですが、哲学とか数学は、論理的につめていったら相手がそれを認めざるを得ないという力を持っています。これを私は強制了解といっています。つまり、何かをいわれたときには、それは共通の了解性を持たなければいけない。
 次にそれがもう一段進んで、数学や哲学の学問が尊敬されたのはどうしてか。強制了解性を持っているからです。「お前もそう思っているなら、これは分かんなきゃダメじゃないか」。こういうことがいえるような言葉を使っているのです。
 その強制了解性が更に進むと何になるか。それが自然科学です。科学は「実験室でこうなっているのからしょうがない」ということで更に強制できます。数学とか論理とかだけであれば、「それは理屈でしょう」と横目で無視できます。しかし自然科学は、現物を作ってきて「ほら、動くじゃないか」といわれると、これはもうバンザイするしかありません。そういうふうな形で人間の社会というのは進んできたというか変わってきたのでしょう。
 自然科学は別ないい方をすれば権力ともいえます。この権力にはいろんな現れ方がありますが、要するにそれは他人を思うようにしようとする気持ちです。そういう動機で科学をやっている人は少ないでしょうが、科学がしばしばそういうふうに使われているということについては注意が必要です。(上と同、18から19ページより)

 ここで養老が述べていることは、実はかなり本質論的なことである。そしてこの強制了解ということが実は一番重要なポイントである。それは永井による「<魂>に対する態度」中の前回引用した部分の後続論文中の部分においても示されているし、永井哲学の骨子の一部であるところの言語習得と期を一にして考えられる自―他ということ、そして私というものの獲得と、それに伴って捨て去っていかねばならないことを言語行為における概念的使用という一般化において考える屋台骨となる考えでもあるのである。次回は永井論文からその部分を引用して養老理論と重ね合わせて考えていくこととしよう。今回は触り程度しか触れられなかった倫理の問題に更に焦点化して論じていくこととしよう。