第一章 思想や科学と哲学とは壁を乗り越えられるか?①言葉とは何か?

<今回から一切敬省略>
 養老孟司は共著や監修なども含めれば都合120冊位を優に超える著作物をものしているので、その著述家としての全貌を把握するということは途轍もなく大変なことだし、またそれは私の任ではないと自認しているので、私の側から問題意識を共有出来る部分のみを抽出してこれから捉えていこうと考えている。そこで私自身が最大の関心を持っている言語、そしてその制度的な構造と、そのことに対する問いという位相から捉えていこうと思う。
 ここに一冊の対談本がある。それは角川書店の新書版である角川ONEテーマ21の「スルメと見てイカがわかるか!」である。対談相手は脳科学者の茂木健一郎である。
 そこからまず第一章 人間にとって,言葉とはなにか から対談の第二章 意識のはたらき に入る前の部分から対談へかけて部分乀で重要箇所を引用してみよう。少し長いのだが本論において極めて重要な指針となっていくものなので、辛抱して読んでいって頂きたいのである。

言葉と脳進化

 言葉のことを論ずるには、二つの方法を考える必要があります。一つは脳の中から言葉が生れてくるメカニズム。これはいってみれば脳の問題です。
 ところが言葉というものは、もう一つ、日常あまり意識されない性質を持っています。それは「外に出されている」という性質です。言葉はわれわれの外にあります。
 たとえば、私は生れてきて、しばらくして日本語を自然に覚えました。私が日本語を覚えたときには、すでに日本語があったのです。実態に即した表現をすると、私は自分の脳を日本語に適応させた。言葉を習うということの根本にあるのは、すでに存在している言葉に対して自分の脳を合わせるということです。適用させることができるということです。
 そこには、子供が生れてきて、言葉ができるかできないかという大問題があります。現在、子供が生れてきてしばらくして言葉が使えないことがはっきりしてくると、多くの場合、施設に入れられると思います。逆にいうと言葉は、社会、そして社会を構成する人の前提条件になってしまっているのです。
 言葉がしゃべれないというのは、言葉をしゃべる能力がないのか、言葉をしゃべる気がないのか。恐らく自閉症などのかなりのケースは、言葉をしゃべる気がない、必要を感じないのでしょう。自分の頭をそれに適応させる気が起こらないのかもしれません。
 数学もまた一つの言語です。もちろん非常に不得意な人もいます。数学が得意でないというのはどういうことか。
 むかし、家庭教師をやったときに、「2A引くAは2」という学生がいました。「2AからAを引いたから2だ」という。たしかにそのとおりです。文字どおり2AからAを取る。だから、これは間違っていると説明するために、「お前さんのいうことは国語として正しいけど、数学として間違ってる」とやらなければいけない。
 「2AからAを引いたら2だ」というのは、その子の論理ですから、それを壊して、「別な約束事で数学ができてるんだよ。この表現は、数学としての約束事をとれっていうことなんだよ」と教えてやらなければいけない。そんな約束事を誰が決めたんだと考える子供だと、結局どんどん受け入れられなくなっていき、結果的にそれができないということになってしまう。最初の約束事を飲み込まない限り、数学はできないんですよ。そうやって数学が嫌いになったのが、数学が得意でない人です。
 ところが言葉の問題の方は数学と違って好き嫌いの問題でなく、これに入れないと人間社会から排除されてしまう。
 ここに脳の進化の方向を決めてきた一番大きな要因の一つがあります。脳の働きは言葉によって共有されているのです。日本語について考えてみましょう。私は日本語の文法を自然に使っていますが、これはみなさんも全員使っています。私がいなくなると日本語の文法が変わるかというと、そんなことはない。ぜんぜん変わらない。つまり、脳の中に言葉が入っているのではなく、じつは脳の外に言葉がある。脳の機能を上手に使っているのです。外にあるのは、声や文章です。これは私の頭の中だからといくらがんばっても、どうしようもありません。(8から11ページより)

言葉は止まっている

 最近は機械が発達し、じつにたちの悪いことが分かってきました。言葉というのは、しゃべっているときはすぐになくなると感じますが、じつは絶対になくならない。テープレコーダーに録ったら止まってしまう。100年経って聞いても、同じことをしゃべっている。ところがさっきしゃべっている話をもう一回ちゃんと繰り返してみろといわれるとこれは難しい。さっきと同じ話は絶対てきません。
 人間と情報の一番大きな違いは何か。情報は、はなから止まっているけれど人間は動いているという点です。人間はいつでも動いていて、二度と同じ状態がとれない。そういうものが人間です。人が生きているというのはそういうことなんです。
 そして情報。あらゆる情報は全部止まっている。言葉もまた止まっている。今日のテレビのニュースを、ビデオに録って五〇年経って見る。ちゃんと同じように映る。今日のニュースは一見動いているように見えますが本当は止まっているのです。
 五〇年後にテレビの中でニュースをしゃべっているアナウンサーはどうなっているか。人によってはお墓に入っている。人によっては白髪になっている。ヨレヨレになっている。
 人間はひたすら動いているから逝ってしまいますが、ニュース、情報はそのままです。
 ロボットは止まっていると考えれば、それは情報に近い。しかしここで問題になってくるのは、むしろ逆に、生きているということは、そういうふうに二度と同じ状態はとれないという点です。時々刻々と変化する。しかし恐らく現代社会においては、われわれが時々刻々と変化するというふうな印象を持つことはありません。「人間は変わらないけれど、情報は毎日変わる」と思っている。ちょうどその逆になっている。そういう逆なところから話をするから分からなくなるのです。
(中略)
われわれが扱っている相手は二つあります。一つは停止したものとしての情報。もう一つはひたすら変わっていくものとしてのシステム。言葉というのはその情報の方に属しています。(12〜14ページより)

スルメからイカがわかるか?

 現在の科学では、専門の科学者によって運営されています。じつはこれが大きな問題なのです。専門の科学者というのは、論文を書く人であって、生物学者であれば生物を題材にして論文を書く。生物を題材にして論文を書くことが必要なのです。論文を書かなければ学者として認められず、評価されない。研究費がこない。仕事になれない。だから論文を書くのです。
 ところがその作業をよく考えてみると、論文を書くというのは、生きたシステムとしての生き物を止めてしまうということです。ページに書いてある、論文に書いてある言葉の羅列を生き物だと思う人はいません。すでに生き物が情報となって止まっているのですから。
 そのことをしみじみと感じるのは、患者と検査データの違いです。病院の外来に行くと、若い医者もいます。彼らの中にはパソコンの画面と検査の結果を書いた紙と、MRIとかX線の写真を見て、患者の顔を見ないという人がかなりいます。実際に、お年寄りのお母さんを連れて外来に行った娘さんはこうこぼしていました。「先生は診断している間に、一度も私の母の顔を見なかった」。
 生きたものを使えなくなっているのです。生きたものは不潔で、あてにならなくて、怖くて、ややこしい。でも情報化したものはきれいです。言葉もそうです。紙の上にきれいに並んでいるから、処理がしやすい。それに対して患者はいろんな問題を起こす。診察している間中うろうろと落ち着かなかったり、急に怒り出したりとか、気に入らないことがいっぱいある。それに比べれば検査のデータというのは非常にきれであり清潔です。ところがそれを生き物と錯覚しているところがあるんです。ここでも話がまったく逆転しています。生きているものはもうちょっと変なものなのです。
(中略)生物というのは動いている。しかしその動いているものを止めないと論文にならない。ここがポイントです。非常にやさしくいうと、イカをスルメにするのが生物学です。スルメは止まっている対象物で、イカというのは生きている対象物です。
 なぜそういう表現をするかというと、私が解剖を長年やってきたからです。解剖をやっているあいだ中、「あんた、人間加工して、人間のこと研究しているっていってるけど、それはスルメからイカを考えてんじゃないの」といわれ続けました。もっとはっきりいう人は「スルメを見てイカがわかるか」と表現します。
 私が大学に入るくらいまでは「大学に行くとバカになる」というのは世間の常識にあったのですが、このことがいまになってよく分かりました。イカをスルメにすること、つまり生きて動いているものを止めることはうまくなる。そして止まったものを、情報処理することは非常に上手になる。しかし生きているものそのものに直面するというか、そういうものをほんとうに相手にして扱うということは下手になるような気がします。(14〜16ページより)

 言葉には具体性がない

 われわれはごく普通に言葉を使っています。しかしその言葉というものには、ものすごく具体性がない。たとえば「私んち」とか「うち」という言葉は通用しますが、「うち」という言葉は一人一人が使っている。ちょっと考えてみましょう。みなさん方のほとんどが「うち」といっても分かると思います。しかしその「うち」は全部住所が違って、家としての形が違って、家族が違っている。それなら「うち」という言葉はどうして成立するのか。このぐらいに共通点が少ないものなのです。
 一方家族が意識している「うち」というのは、はなはだ具体的な「うち」だと私は思っています。家族はこれとこれとこれのメンバーで、場所はここ。そうすると動物が「うち」という概念を理解しないのは当然になってきます。おそらく私んちを「うち」というと、お前さんちは「うち」じゃねっ、と犬はいうでしょう。そういう意味では、人間の場合は七割ぐらいが抽象化されています。そもそも言語自体が非常に抽象化されているのです。(後略)(22ページより)

 発生における制約

養老 みんな同一性の問題など、分かりきっていると思っている。だから、この話は、ゆっくり聞いてもらえないんですよ。「養老は落ち着け。俺がしゃべるから」と言って(笑)。
茂木 途中から何か言いたくなるんですね(笑)。
養老 そうなんですよ。だから結構難しいんです。上手に言うのは(笑)。
 おおざっぱにいえば、いま考えている言葉の問題というのはひとつはそこなんですね。いろいろ応用ができるんですよ。世界全体が動いているんだけど、言葉というのはそこにはまっている「たが」ですから。そうすると、むかしの人がいってることがよく分かるんです。「言葉はあまり使うもんじゃない」とか「黙ってろ」とか。そういう話というのは、言葉は非常に動かしがたいものであるというところからきてると思いますね。
 言葉というのは、確かにそれ自身が動かしがたい。同一性だから、うっかり動かせないんです。リンゴのイメージが変わったからって、「リンゴ」という言葉を変えようというふうにはいかないんですよ。言葉を使って生きるということは、言葉をなりたたせているそのような制約に自分の脳を合わせるということになるわけです。
 言葉を持たない子供は確かにいますけど、そういう子供だって考えてないわけではないんです。能力的には、いろんなことができますよね。だけど、ある年齢を過ぎるともはや言語が獲得できなくなる。どうして言語ができなくなるのか。おそらく脳が反応しなくなって、その種の制約をもうかけられないんですよね。要するにある種の制約がかかることは、脳が発達して、言葉を獲得する上で重要だということになる。(後略)(37〜38ページより)

 ここで養老は一つに、言葉とは道具であり、それ自体は何かを表現した途端に止まってしまう、つまり真理化された表象となる故、それは常に変化し続け、考え方も、考える内容も刻々変えている人間と同じではないが、その落差を承知していても、我々はつい言葉によって得られた真理の方を大事にしてしまう、ということを言いたいのである。それは科学者にとっての論文ということでよく示されている。
 つまり言葉とはそれ自体止まっている、変化し続けはしないという性質の故、変化し続けること自体が仮に生きているということの定義の一つであるとするなら、必然的に人間が生命を持っていることとして生きていることに対して「死んでいること」になる。
 しかし我々はその「死んでいること」を糧にしなければ、一切の意思疎通を行えないし、一切を決定することも、相手を理解することも出来ないということである。
 このことはでは哲学者である永井均においてはどう捉えられているのだろうか?
 又長くなるが、永井の論文「<魂>に対する態度」から抜粋して永井言語論として主張が明確に理解出来る箇所を掲載しておこう。永井はこの本の中で 1 ヴィトゲンシュタインの<感覚>とクリプキの<事実> においてこの二人の二十世紀の巨人の関係をクリプキヴィトゲンシュタイン解釈自体がヴィトゲンシュタインについて、という部分からではなく、解釈自体が素晴らしいと考えている多くの論調に対して、そうではなくあくまでヴィトゲンシュタインについての解釈としても的を得ているのだと主張した後で、次のように記述している。

2
 以上はクリプキの議論に対する私なりの、しかもきわめて大ざっぱな要約であったが、ここで、この議論展開の中で彼が示した二つの論点にとくに注目したいと思う。第一は、私的言語論(私的言語の不可能性の論証)は、規則順守問題に関する懐疑論パラドックス懐疑論的解決(規則に従うことの私的モデルの否定をふくむ)を、感覚言語へ適用したものにすぎない、という論点である。第二の論点は次の引用文に示されている。「もしある個人がじゅうぶん多くのテストに合格したならば、共同体は彼を規則に従う人(a rule follower)として認め、共同体は共同体が彼の反応を信頼することの上に成り立っているような相互行為に、彼が参加することをゆるすようになる」。さて私は、さしあたってまず、この第二の論点を強調することによって、第一の論点を否定するところから出発したいと思う。
 もし私的言語論が、規則順守の関するパラドックス懐疑論的解決(にふくまれる共同体説)の系にすぎないのであれば、私的言語をめぐる問題のすべては、たとえば「痛めったさ(paicle)という例によって説明されるはずである。「痛めったさ」とは他の場所では「痛み(pain)を意味するが京都ドイツ文化センターの中では「くすぐったさ(tickle)を意味するような概念である。もちろん私は京都ドイツ文化センターの外で「痛み」という言葉の使い方を学んだ。ある日、私は生れて初めて京都文化センターの中に入り、そこで痛みを感じたとする。自信をもって「痛い」と言う私に、例の懐疑論者はこう問うであろう。君がこれまで「痛み」によって意味してきたのは実は「痛めったさ」だったのではないか、だからいま君は「痛い」と言うべきではないのではあるまいか、と。そしてもちろん、ここでもまたこの懐疑主義者は論駁しうるような<事実>は発見できないのである。
 もし私的言語論が規則順守問題の系にすぎないのであれば、これが問題のすべてであろう。だが、果たしてそうだろうか。計算や家具や色についてならば、かりに私が懐疑主義者の言うことを真に受けて、六八たす五七の答えが五であるとか、エッフェル塔の中の椅子がテーブルであるとか、いま目の前にある青いものがグリーンであるとか言い出せば、私の発言は即座に共同体によって訂正され、もし私がなおも執拗にその種の主張を繰り返すならば、私は「規則に従わない人」として共同体から排除されることになるであろう。このような場合、共同体の権威は絶対的である。しかし、内的感覚については必ずしもそうとは言えない。たとえば、私が京都ドイツ文化センターの中で、確かにくすぐられたとする。そのとき、私がいかにもくすぐったそうな振舞いをしながら、「痛い」と言ったとしたらどうだろうか。共同体は、私が「痛い」という語の使用規則を誤ってとらえていたとして、即座に私を訂正できるだろうか。そうではあるまい。私は、くすぐられてくすぐったそうにしていたにもかかわらず、実は痛みを感じていたのかもしれない。そして、私が感じているものが実は「痛み」なのか「くすぐったさ」なのかを確定しうる権威をもつのは、私であって共同体ではない。これは、六八たす五七の答えがいつくになるかを決定しうる権威をもつのが共同体であって私ではないのと同様に、まったく明白なことであると思われる。六五たす五七が実はつねに五であるなどということには何の意味もないが、くすぐられてくすぐったそうにしている私は、実はつねに痛みを感じていた、ということは、少なくとも有意味に想定可能なのである。この点に、単なる規則順守問題に還元できない私的言語論に固有の問題が存在するはずである。
 ここで注意すべき点は、これまでの例で一貫して主人公を演じてきた「私」なり人物は、立派な大人として想定されており、したがってまた、すでに共同体によって「規則に従う人」(「言葉の正常な話し手」・「共同体の一員」等)と認められた人物としても想定されていたはずである、という点である。そうでないような人物、たとえば子供、については事情が異なる。言葉の習得段階にある子供にとっては、くすぐられてくすぐったそうにしているときに彼が感じているものは、必然的にくすぐったさの感覚である。実はそのとき彼は痛みを感じているかも知れない、などという想定に意味を与えることはできない。その種の想定をアプリオリに排除するのでなければ、われわれは内的感覚を表現する言語を習得していくことができないのである。われわれは状況と反応行動という外的基準にもとづいて、しかも大人(つまり他人)に教えられて、内的経験を表現する言葉を身につけていく。この段階で、子供が外的基準とは独立に、大人に教えられることなく、自分で自分の内的体験を表現する言葉を創り出す、などということは想定不可能である。決定権は大人に、つまり他人にであって、本人にはない。すでに感覚言語をマスターした大人の場合とは大いに異なる、と言わねばなるまい。ここで私は、いわゆる私秘性(privacy)を二つに分類する必要性を感じざるをえない。一方は、すでに共同体の一員として認められている主体の内的経験に関する私的性格であり、これを私は個人的であるいは人格的私秘性(individual or personal privacy)と名づけたい。他方は、また共同体の一員として認められていない、あるいはけっして認められることのない主体の内的体験に関する私的性格であり、これを私は超越的私秘性(transcendental privacy)と呼びたい。私の見るところでは、ヴィトゲンシュタインの私的言語論は、この区別をあいまいにすることによって成り立っているのである。まずその点を確認しておこう。
 『哲学探究』の私的言語に関する議論においては、「感覚日記」という話が中心的な役割を演じている。その箇所の冒頭で、想定されている状況を読者に説明するにあたって、ヴィトゲンシュタインは次のように書いている。「私はある感覚(ein gewisse Empfindung)繰り返し起こることを日記につけたいと思っている。そのためには、私はその感覚を『E』という記号と結びつけ、私にその感覚が起こった日には必ずその記号を書き込むことにする。」(二五八)もちろん、ここでの「感覚」は状況や反応行動などの外的基準からまったく切り離されたものとして想定されている。にもかかわらず、われわれはこの状況設定を問題なく理解することができるし、またそうであることを前提としてヴィトゲンシュタインの議論は開始されている。ところが、この「感覚日記」の断章は実に意外な展開を見せて終わるのである。彼は二、三の有名な文章をふくむ短い自問自答の後、次のような修辞疑問文で始まる断章を記している。「『E』をある感覚(eine Empfindung)の記号と呼ぶことにどんな根拠があるのか。というのも『感覚』はわれわれの公共言語に属する語であって、私だけに理解できる言語に属する語ではないからだ。それゆえ、この語を使うには誰にでも理解できる正当な根拠が必要なのである。_そして、それは感覚でなくともよい、彼が『E』と書くとき彼には何かが起こっているのだ_それ以上のことは言えない_、と言ったみたところで何の役にも立たない・・・・・・」(二六一)「E」をある感覚の記号と呼んだのはヴィトゲンシュタイン自身であり、読者は彼の設定した架空の状況を即座に理解した。その記号の使用には「誰にでも理解できる正当な根拠」が確かにあったのである。では、それはいつなくなったのか。
 私秘性を二種に分類するわれわれの観点からすれば、ヴィトゲンシュタインの「感覚」には最初から二義性が込められていた、と言わなければならない。一方でそれは個人的に私秘的な「感覚」を意味しており、その限りで彼の状況設定は誰にでも理解できる意味をもちはする。だが、まさにそれゆえに、彼の導こうとする結論(二六一節)はそこから決して導かれない。他方でそれは超越的に私秘的な<感覚>を意味しており、その限りで彼の導こうとする結論はすでに状況設定のうちに暗にふくまれていることになる。だがまさにそれゆえに、彼は自分の思い描く状況を「感覚」という公共言語を使って描き出すことはできない。彼の根本的な誤謬は、すでに共同体の一員として認められた人格主体のもつ感覚から、外的種基準を除去するだけで、超越的に私秘的なものに達することができると考えたところにある。これは感覚言語に固有の複雑さを無視して、それを規則順守問題の単純な一例とみなす立場である。しかし、そのような単純化が成り立たないことは、外的基準をもたない「感覚」が「繰り返し起こる」ことを「日記につける」という言い方が通用し、誰もがそれを問題なく理解するということのうちに自ずと示されていると言える。言いかえれば、個人的という意味に解される限り私秘的な感覚の同定は可能なのであり、しかもその可能性が一般に承認されていることを前提とするのでなければ、彼は自分の問題を設定して見せることさえできなかったはずなのである。事情は数学や物体や外的知覚の場合と大いに異なっている、と言わねばなるまい。
 意外なことに、むしろクリプキの描くヴィトゲンシュタイン哲学の方が、この難点を免れている。クリプキは注八三において、個人的という意味で私秘的な感覚の同定を、したがってその意味での私的言語の存在を、はっきりと承認しているからである。彼はそこで次のように書いている。「ある個人が感覚言語一般をマスターしたと認められるに必要な諸基準をすでに満たしている場合には、彼がある新しい感覚を同定したと主張したとき_たとえその感覚が公共的に観察可能な何ものにも関連してしないとしても_われわれはそれを尊重するようになる。このことは感覚に関するわれわれの言語ゲームの原初的な部分をなしているのだ。この場合、そのような表明のもつ唯一の『公共的基準』は、彼の誠実な表明それ自体となるだろう」ここでは明らかに個人的な私秘的同定の可能性が認められている。したがって、否定されているのは超越的な私秘的同定ということになるだろう。クリプキはこれを字義にとらわれない(liberal)解釈と呼んで、それがヴィトゲンシュタイン哲学とは一致することを示唆している。だとすれば、私的言語論の特殊性は、むしろクリプキヴィトゲンシュタインにおいてこそ強調されておいることになる。

3
 だがしかし、クリプキの言う字義にとらわれない見方を字義通りにとれば、それは私的言語論のみならず規則順守問題一般に波及する論点となるはずである。外界から隔絶された密室でトランプの一人遊びの規則を発明した(と信じている)人物を例にとって考えてみよう。そのような規則を発明する(と信じる)ことができる人物として想定されている以上、彼は当然すでに共同体の一員として認められた主体であろう。だとすれば、彼が同じ規則に従ってプレイしたと主張したとき、やはりそれを信頼するだろう。三度目からは少し規則を変えたと言えば、やはりそれを信頼するだろう。そうである以上、彼が一人で居るとき、彼もまた彼自身を信頼してよいのである。人は個人(あるいは人格)としての自己に対する信頼でしかありえず、共同体を超えた超越的な自己に対する信頼ではありえない。そして私の考えでは、このことこそが共同体説の真の意味なのである。
 だがここで重要なのはむしろ次の点である。この一人遊びを発明した人間がかりにまったくの想像上の人物だったとしても、そのような人物を想定することができ、その想定が人々に理解されうるということの内に、もうすでに_あるいはむしろつねにすでに_共同体の一員としての個人が個人的(人格的)という意味での私的な規則には従うことができる、ということが示されている、という点こそが重要なのである。そうでなければ、一人遊びを発明したこの人物がそのゲームをもう一度行う、という想定自体が理解不可能なものとなるはずである。彼もまた、われわれの共同体の外に出ることはできないのである。クリプキは、ロビンソン・クルーソーの私的言語をめぐるエヤーとリーズの論争に関連して、問題は物理的な孤立ではなく「共同体から孤立しているとみなされた個人は規則に従っていると言われない」ということなのだ、と言っている。だが、そもそもわれわれは「共同体から孤立しているとみなされた個人」などというものを想定することができるだろうか。できるとは思えない。そのような人物、すなわち超越的に私的な規則に従う人物を思い描くということは、実はまったくの狂人を思い描くことでしかなく、そしてその狂人には自分が規則に従っていると信じることもまた不可能だからである。規則に従っていると信じることができるためには、少なくとも「信じる」という語の文法規則に従うことができるのでなければならない。それゆえ、われわれが規則に従っていると信じている人物を想定するとき、その人物はある規則には従っている人物として想定されていることになる。規則に従っていると信じることもまた公共的な言語ゲームに属しており、それができるのは共同体の一員として認められた個人だけなのである。そのような個人が、どうしてその規則そのものには従うことができないことがあしえよう。(82〜90ページより、勁草書房刊)
(後略)

 永井によるこの論説はヴィトゲンシュタインクリプキによる哲学史的寄与という解釈スケールを遥かに超え得る問題提起と命題論的アプローチをしている。そして重要なことは数多くの点で永井論議には養老論議と共通性がある、ということだ。尤も永井論議の方が1991年に、そして養老論議の方は2003年なので永井の方により先見性がある、とは年代論的には言い得るが、問題となるのは、解剖学者にして思想家である養老と哲学者、永井が期せずして同一の命題を保持している、ということはここまで読んでこられた来場者には一目瞭然であろう。
 まず最後に狂人と言っている部分は、養老における自閉症児に部分的には適用出来る。何故なら自閉症児とはある部分では完全なる独我論的な生活を自動的に選んでいるとも言えるからだ。しかし恐らく彼等はやはりそうしながら、永井が完全に「共同体から孤立しているとみなされる個人」ではあり得ないという形で半私的言語実践者たちである。
 しかしある部分では永井による「痛めったさ」という語の共同体有用性について考える思考実験では、クリプキモデルを援用しながらも、何故言葉は共同体において閉塞的ではあってもルールとして通用するかということにおける問題提起である。これは養老において自分が死んでも恐らく言葉は一切変わることなく話されていくという叙述とリンクする。つまり養老の言葉を借りれば脳の外に言葉がある、という考えを適用すると、クリプキモデルでの公共的基準へとパラメーターセッティングすること自体が共同体で生活していく権利を得ていく過程であり、その能力を身につけていく段階において我々もかつて必ずそうだったように永井の言うように大人に全て訓育権があるのであり、子供はその習得自体には何ら疑問を持つことを許されていないという重要な事実にぶち当たる。養老の叙述で示されている動物には抽象的概念が理解出来ないということは、そのことを習得することも出来なければ、その習得したことを糧に疑問を持つこともないということの主張において意味がある。
 つまりその規則順守性のパラメーターセッティングとしての性格を理解しておかないと、我々は後続する永井によるクリプキによるヴィトゲンシュタイン私的言語解釈の命題論的存在理由を知ることが出来ないのである。
 つまり感覚的な日記をヴィトゲンシュタインがつけることを思考実験した時、明らかに私秘性と永井によって命名されたことが、必ず人格的、つまり社会共同体内で強制される(このことについては次回に詳述する)ということにおいて成立しているのであり、超越的なことではない、そして超越的であると思惟する可能性は確かに我々には残されているし、思惟内容としての存在理由があっても尚、それは規則順守すること自体を前提した上でなされる思惟内容である、ということは、ある意味で殺人行為の持つ意味を検証することも辞さないということを、だからと言って本当にそれを実行することのない成員によってのみ論議がなされることを前提している、というかつて中島義道が提起した考えとも全く符号する。
 つまり何を思惟してもいいし、何を創造してもいい、だから痛い時にくすぐったい表情を取ることも、そのこと自体で共同体内に甚大な被害を齎さない限り権利として自由の領域であるが、それはそうすることによって得る社会的評定とか人格的な懐疑を他者から得ることをさえ承知で敢えてする、という意味合いにおいて理解されなければならない、という意味では永井自身は哲学者としてそこまで踏み込んで記述しないことを選んでいるものの、暗喩的には示されているとも言えよう。
 そして最大級にこの二人の記述から読み取られることとしては、言葉が「死んでいるもの」であり、その言葉の延長線上にある脳波を示した診断図のみを見て、患者の表情を確認しない医師への養老による揶揄が持つ意味が科学者としての倫理的な領域への提言としての意味を持っているということを示している。
 そしてその点についても哲学者は決して思想家ではないから、踏み込まない。しかし実際本意として彼等が倫理外的行動を許容している、と言うことも出来ない(そのことは永井による後続の論文記述において詳細に見ていくこととする)。

 ここで纏めておくと、科学者出身の思想家と哲学者の二人に共通しているスタンスは、只単に時代的に全ての学問が人類生存のために共通項を持ち、学際的に無意識の内に思惟しているというようなことでは決してなく、もっと本質論的に、容易に領域の壁を越えて、リンクし得る命題論的な普遍性ということを考えねばならないということである。それは言葉自体が持つ暫定的であるが故に規則順守を厭がおうでも強制するシステムにおいて滅却されていく私秘性ということの持つ意味が、それ自体が尊いものであるとか、思惟内容として価値あるものであるとかを考えること自体が持つ命題論的な意味とは、実は倫理の問題である、ということだ。それは端的に我々が生理的身体論的に付与されているリアリティの中で如何に権利問題としての自由は確保され得るか、ということに尽きる。
 そしてその問題を考える際に重要となってくること、そしてそれこそが本ブログで最もずっと考えていきたいことなのであるが、言葉という「死んでいるもの」を援用することで覚醒する「生きているもの」まさに医師としての養老からも、哲学者の永井からも提起されているこの社会強制的システムにおいて、では生きていることがまずア・プリオリにあって、そこから我々は言葉を習得していき、一旦は私秘性を捨て去らなければいけないが、それは価値として再び取り戻すべきものであるか、つまり私的言語を価値として個人内で死守していくべきことであるのか、あるいはそれは只単に幻想であり、命題論的に言語習得システムの構造を理解するに従って思惟内容として浮上した可能性でしかない、つまり私秘性の方が寧ろア・ポステリオリであるか、ということである。
 この点において患者の治癒を目的とする医師である養老と永井との間には多少の開きが生じてくる可能性は認められよう。しかし当該の命題はそんなに単純ではない。何故なら倫理とはたとえ医師とか科学者、あるいは思想家という立場からも、哲学者とか論理学者という立場からも当然一個の実在者、社会的意味でも精神的意味でも存在者たる個人から出される問題だからである。
 次回はその社会倫理と言語ということの関係から考察していくこととしよう。